『全貌フレデリック・ワイズマン――アメリカ合衆国を記録する』

■『全貌フレデリック・ワイズマン――アメリカ合衆国を記録する』土本 典昭 (編集), 鈴木 一誌 (編集)

素晴らしい本だった。ワイズマンの長いキャリアの全貌を見るだけでなく、ありとあらゆる視点からワイズマンに時に厳しい批評を浴びせその実態を浮かび上がらせてくる。

個人的に気になった点をまとめて箇条書きにしてみる(26歳の若手がこの書物を参考にして映画作家になりたいという思いも込めて)あくまで自分へのメモ。

■ワイズマンの作り方はあくまで限定的であり、大変頑固な作り方であるということ。全てのドキュメンタリーがこう作られれば良いというお手本ではなく、むしろワイズマンの精神から学ぶべきことを読み取るべきであると思う。観察的に撮影しようが、編集をしようが少なくともアウトプットは各々のベストな作り方が存在する。

■特定の主人公を選ばずにある集団や、集合体を選ぶという被写体。主人公を選定しないことで物語を作らない→映画のカタルシスを否定していく→だが重層的に「映画」が浮かび上がってくる。ドキュメンタリーにおいては映画らしくしない方法がかえって豊かさや映画的になることがある。

■「退屈だが退屈でない」という真意。映画としては明らかに長い。映画というフォーマット(エンターテインさせる興行)という意味では退屈なのだが、素材の魅力即ち紛れもない「現実の素材」が目をスクリーンから離させない。あえてヘンテコな人間の行いを多くフッテージと使用したり、そもそも普通の人が見ても新鮮な景色や映像を選び撮とるセンスがある。

■反復性。映画は違った対象を追いつつ反復性をにおわせる。同じことを並列しているような感覚になり、ラストはメッセージを挿入せずに衝突に終わり観客を日常に戻す。だがカタルシスではない何かを観客に与える。つまり「思考」を残す。エンターテインを与えるわけではなく、考える「キッカケ」を与える。

ざっと思ったところはこんなところ。追記があるかもしれないが、これを見た段階でもう普通の映画は見なくて良い気もしてしまう。いやそんなことはないのだが、もう私に限ってはアウトプットを想定した生活に切り替えて行かなくてはとこの本を見て思った。つまり作家としてのスタイルの確立だけども。これを見てこの「作り方」になるというわけではない。ただ極めて個人が対象と向かい合えることを証明してみせているし、そこから「作家」なる実態が浮かび上がってきている事実を見過ごすことは出来ない。だから作り続けているワイズマンから学ぶべきことは多い。