『モテキ』

ワーナー・マイカル・シネマズ多摩センター『モテキ』監督:大根仁

日本人の浪花節的要素と現代のツールをふんだんに使った新感覚のラブコメ。テレビシリーズのお約束事をしっかり踏まえ発展的に映画に落とし込んでいる。牛丼を食べるとか、一人カラオケを歌うとか、Twitterで気になる人の動向を探るとか、現代人の恥ずかしい部分や感覚をオープンにしている。しかしこのようなことってもう近年のアメリカのラブコメではもう当たり前のように流行している。「遠距離恋愛」でトランスフォーマートップガンといった有名な映画を茶化して引用したり、「ステイフレンズ」や「500日のサマー」だってインド映画さながらに登場人物が踊りだしているシーケンスは多数ある。大根さんがそれらの感覚を敏感に嗅ぎ取ったからといって全世界的に見れば何ら新しい表現ではなくて、いかに日本映画のラブコメが軽視され量産され続けてきたかが、「モテキ」という作品が出る事によって露呈されたかのようでもある。Web世代独特の言葉使いや表現が巧みに作品内で使用されている。それらの言語を観客がすんなり入って来れるキャスティングとポップさがこの作品の大変重要なとこで。長澤まさみの効果はそれこそ誰もが殺人的に可愛いと言わざる終えない完璧さだ。だから逆にその最大公約数っぷりが果たしてどうなんだろうと。この作品はフェティッシュに見えて全然フェティッシュじゃない。フェティッシュな表現こそ過去のピンク映画や日本映画にあった正当性じゃないだろうか。「モテキ」のヒットがその最大公約数にしっかり当たっていることをバッチシ示しているんだろうが、だからといって日本映画がもう一度あの頃にあった映画群に匹敵するものになるかと言われれば、まだそうでもない気がしていて。「モテキ」が出たのだから、この作品と双璧に語られるべきラブコメが日本でもっともっと作られなきゃいけないんじゃないだろうか。森山未來演じる主人公がテンプレートなサブカル自己防衛をするんじゃなくて、もっとその作品にしか存在し得ないようなフェティッシュな自己防衛をしたキャラクターがもっと見たい。社会に迎合なんかしなくていい。そういう意味では映画の強度という部分では別次元かと思った。強度というのはカネフスキーの三部作のような愛の形かもしれないんだけど。モテキからが始まりかもしれん。